もがいてる

俺たちいつまでも歳を取るのを楽しみにしてようなって話してる

いかにしてスティーブン・キングの妻はキャリーを救い、また夫のキャリアを始めさせるに至ったか

http://mentalfloss.com/article/53235/how-stephen-kings-wife-saved-carrie-and-launched-his-career

1973年、スティーブン・キングの財布は空だった。彼はトレーラーハウスに住んでいて、梱包材とダクトテープでまとめた錆びついたバケツを下げてあちこち走り回っていた。彼はメイン州東方にある私立ハンプデン・アカデミー高校で英語の教鞭をとっており、彼の妻タビーはダンキンドーナツで働いていた。そんなふうにかろうじて生計を立てているといった具合だったので、キングは夏の間はクリーニング屋や警備員のアルバイト、それからガソリンスタンドなんかでも働かなければならなかった。しかも幼児と乳幼児を抱えていたから、お金も、そして小説を書く時間もなかなか取れなかったのだった。
キングはタイプライターを持っていなかったので、タビーが大学時代から使っていたオリベッティ*1を使わねばならなかった。彼女は洗濯部屋に間に合わせの机を設置した。洗濯機と乾燥機の間にぴたりと嵌り込むくらいの大きさだ。毎晩、タビーがおむつをかえ、夕飯を作っている間、キングは鞄の中でしっちゃかめっちゃかになっている書類の束を忘れ、洗濯室でただ書くことだけに集中した。
早晩結果は期待できない。でもキングは短編をプレイボーイやカヴァリエ、ペントハウスなどの雑誌に投稿した。運がよければちょっとした収入が得られる。裕福でないキング一家にとって、ありがたい収入だった。


そんなある日、ハンプデンの英語部部長から魅惑的なオファーが来た。ディベートクラブが新たな指導教員を必要としているというのである。報酬は年間でプラス300ドル。すごく多いわけではないが、そのお金があれば10週間、一家は食いつなぐことができる。
この申し出は大いにキングを魅了したし、彼は家に帰ればきっとタビーもこの喜びを共有してくれるだろうと思っていた。しかし彼女は納得しなかった。
彼女は書く時間はあるのかと尋ねた。
「十分ではないね」と彼が答えたのでタビーは言った。
「なら、やめておいたほうがいいと思う」
そんなわけでキングは仕事を引き受けなかった。これは良い選択だった。それから一年もたたずに彼はあのベストセラー、キャリーの冒頭を書きはじめることになったのだから。

A PAIR OF WRITERS/二人の作家

キングがディナーの席でよく言う冗談がある。「なぜタビーと結婚したかって?それは彼女がタイプライターを持ってたからさ。それだけだよ」

2003年、キングは笑いながら「ある意味では正しいです」と言った。「私が彼女と結婚したのは彼女を愛していたからだし、ベッドから離れても同じ気持だったからだ。確かにタイプライターもひとつの要素だったけどね」

二人はどちらも裕福な家庭の出ではない。キングの場合、二歳の時、彼の父親はたばこを買いに行ってそのまま行方しれずになった。彼の母親は二人の子供を抱えて残されてしまったのだ。一方、タビーは貧しいカトリックの家庭にうまれた八人兄弟の一人である。二人が出会ったのは六十年代メイン大学で、恋に落ちたのは詩の朗読をする授業、結婚は卒業後すぐだった。この時、キングはスーツもネクタイもそして靴さえも結婚用に借りねばならなかった。

当時はふたりとも作家になることを夢見ていたが、最初の一年、彼らが受け取ったのは「リジェクト」という知らせだけだった。タビーの結婚にまつわる"Grimier"と銘打った詩集は出版社に気に入られたが、出版するレベルではないと却下された。スティーブンに至ってはさらに悪かった。彼は製図用の机でどうにか三本の小説を書き上げただけだったのである(後にこの原稿はハイスクール・パニック、死のロングウォーク、Blazeとして出版された)


とはいえ、キングはポルノマーケットではそこそこうけた。ほとんどの彼の小説はカヴァリエ――カヴァリエはアイザック・アシモフレイ・ブラッドベリロアルド・ダールを特集した雑誌である――の袋とじの中に埋葬された。SFとホラーがいくらかの理由でピチピチの金髪ねーちゃんで割かれた2ページで補完されたが、その2ページは男性作家には少々評判が良かったが読者からは厳しい批判が寄せられた。「あなたはマッチョなことばかり書いてる」と、ある読者は言った。「あなたはたぶん女性がかけないんだ。女性を怖がってる」


キングはそれを挑戦と受け取った。キャリー執筆への火が灯った瞬間である。

CREATING CARRIE/「キャリー」制作

「キャリー」はキャリー・ホワイトの物語だ。彼女は内気な女子高生で、自分の意志でものを自在に操ることができる。ある日体育の時間に彼女は初潮を迎えるのだが、長い間抑圧的で敬虔な母親に育てられていた彼女は何が起こっているのか全くわからず、死にかけていると勘違いしてしまうのである。いじめっこたちはキャリーを罵倒し苛めるが、ホルモンの変化でテレキネシスの力を得た彼女は、この力を使って自分を地獄に追いやった子供たちに復讐するのである。


この小説のアイデアはキングの白昼夢からヒントを得ている。彼は雑誌LIFEでテレキネシスの記事があったことを覚えていた。記事ではその力が存在するとすれば、思春期の少女こそ最強になれるとあった。同時に高校の用務員として働いていた時のことがキングの頭に蘇った。特に女子シャワー室のサビを綺麗にしなければならなかった日のことは鮮烈である。彼はそれまで(もちろん)女子シャワー室になど行ったことがなかったから、壁際のゴミ箱にタンポンがあるのをみて、遠い惑星に来てしまったように錯覚した。


二つの記憶が衝突した。キングはカヴァリエ用に10編ほど短編を作ることができると思った。プレイボーイ用でもいい。Hefの雑誌は支払いがよく、Buickも新しい作品を求めている。


キングは高校時代の記憶にある二人の孤独な少女をモデルとしてキャリー・ホワイト像を描いた。一人は痰がからんでいるのかいつももごもごと喋る少女で、臆病なうえにてんかん持ちだった。彼女の母親は原理主義者だったのでいつも等身大の十字架をリビングルームに飾っていて、その思想が学生寮にいる彼女のもとまで続いているに違いないとキングは確信していた。二人目の少女は孤独だった。彼女はいつも同じ服を着ていて、そして手ひどくいじめられていた。


キングがキャリーを書くまでにどちらの少女も亡くなっていた。一人目はてんかんの発作のあと、孤独死した。二人目は産後うつに悩まされ、ある日お腹にライフルをあてがって、トリガーを引いたのだった。「私のキャリアの中でもこれ以上不愉快な話を探すのはほとんど不可能です」と二人のことを回顧し、キングは書いた。


この悲劇はキャリーの執筆をより一層難しくさせた。書き始めのころ、彼はびっしり三ページタイプをしたところで怒りのあまりそれをぐしゃぐしゃにし、ゴミ箱の中に突っ込んでしまった。彼は自分自身に失望した。彼の批判は――彼が女性的な見地から物事を書くことができないというのは実にまっとうな批判だった。物語全体にも彼はうんざりした。キャリー・ホワイトは苛々する人物だったし、しかもよく訓練された被害者だ。もっと悪いことにプロットの流れは極めて遅かった。つまり出来上がるであろう作品はどの雑誌に載せるにも長すぎるのである。


「私は二週間、あるいはおそらく一ヶ月も使って好きになれない小説を書き上げるような余裕はなかったんです。しかも売れそうにないとわかっているのに」とキングは自伝「小説作法」に残している。「だから私はそれを捨てたんです――だって貧しい女の子の月経問題についてかかれた本なんか誰も読みたくないじゃないですか」


翌日、タビーは洗濯室のゴミ箱を空にしようとして、三枚のくしゃくしゃの紙を見つけた。彼女はそれを手に取り、煙草の灰を払い落としてページをのばした。キングが仕事から帰ってきても、彼女はまだそれを手にしていた。


「これ、すごくいいとおもうわ」と彼女は言った。「かなりイケてると思う」
それから数週間後、タビーは夫に女性の世界を案内し、キャラクターの作り方を指南した。そしてあの有名なシャワーシーンを書かせたのである。キングは最終稿を仕上げた。


だが、30の編集者がキャリーをリジェクトした。

PUBLISHED AT LAST /ついに出版の日が

ハンプデンアカデミーの日々も五期目に入っていた。彼はそれまでの期と全く同じようにグロッキーになりながら教員用ラウンジで試験の採点をしていた。頭ではうたた寝できたらどんなにいいかと思っていたが、そんなわけにもいかない。と、その時、校内放送がラウンジに轟いた。事務所の秘書の声だった。


スティーブン・キングさん、どこにいらっしゃいますか?」と声は繰り返している。
彼は内線電話をとってラウンジにいると答えた。すると秘書は用件を告げた。
「オフィスまでいらしてください。電話ですよ。奥様からです」


彼はオフィスまで走っていった。タビーが仕事場に電話をかけてきたことなどない。それどころかタビーが彼に電話をかけてきたことなどなかった。なぜなら彼は電話を持っていないからだ。彼らは節約のために電話を撤去してしまっていた。電話をかけねばならない時、タビーは子どもたちをドレスアップさせ、近所の家まで引っ張っていかねばならない。そしてそこで電話を借りるのだ。しかしそんな悩ましいことをしなければならないのは、ひどく困ったときか、もしくは非常にすばらしいことが起こったときだけである。キングが電話をとった時、ふたりとも息を切らしていた。彼女は言った。ダブルデイ出版の編集者、ビル・トンプソンって人なんだけど、彼が電報を寄越したの。読むわね。


“CONGRATULATIONS. CARRIE OFFICIALLY A DOUBLEDAY BOOK. IS $2500 ADVANCE OKAY? THE FUTURE LIES AHEAD. LOVE, BILL.”
「おめでとう。キャリーは正式にダブルデイ出版から発売されます。前金2500ドルでどうでしょう? 未来は明るいよ。本当におめでとう。ビルより」


キングは切り抜けたのだった。2500ドルは大金ではない。教師をやめ、完全にフルタイムで作家業をやるには、という意味では全然十分ではない。でも、彼が今まで小説を書いて得た金額としては一番多かった。キングはその前金でぴかぴかのFord Pinto*2を買い、トレーラーハウスから引っ越してメーンのバンガーにある四部屋もあるアパートに移り住んだ。食糧を買う十分なお金にもあるし、もちろん電話を引く余裕もある。


しかしたっぷりの印税が銀行口座を補充してくれるだろうという当てははずれ、キャリーはハードカバーで13000部しか売れなかった。この生ぬるい売上では1974年も教職の契約を新たに結ばねばならない。彼はしぶしぶと自分を納得させ、契約を結んだ。その合間に新しい小説、"The House on Value Street"をはじめたが、母の日にまたキャリーが彼のもとに帰ってきたのである。


全てを変えたのは一本の電話だった。ビル・トンプソンが再びしらせをよこしたのだ。
「君は今、座っているかね」と彼は聞いた。


キングはその時一人で家にいて、キッチンとリビングの境目にちょうどたっていたので、「座ったほうがよいですか?」ときいた。
「そうしたまえ」とトンプソンは言った。


"The paperback rights to Carrie went to Signet Books for $400,000 ... 200K of it’s yours. Congratulations, Stephen.”
「キャリーのペーパーバックの権利をサイネット出版が40万ドルで買った……うち20万ドルは君のものだ。おめでとう、スティーブン」


足から力が抜け、キングは思わず床にへたり込んでしまった。彼は文学的運命に打ち勝ったことに興奮して体を震わせたが、このニュースを分かち合ってくれる人は誰も家にいない。タビーは祖母の家に子供を連れて行ってしまっていて不在だった。でも、お祝いとしてすぐにでもタビーに母の日の贈り物を買わねばと彼は思った。彼は彼女になにか豪勢なもの、とにかく忘れられないものを買ってあげたかった。キングは急いでバンゴーのダウンタウンへ走っていった。その日は日曜でどの店も閉まっていたが、ドラッグストアだけは開いている。そこで彼はタビーに一番必要なものを買った。ドライヤーである。


キングは教職を辞し、タビーはドーナツを売るのをやめた。そして三年後、キングはタビーに別のプレゼントをかった。彼はおしゃれなマンハッタンの宝石店カルティエで、彼女のために婚約指輪をかったのだ。結婚して六年が経っていた。

A BONAFIDE HIT/真実のヒット

キャリーの単行本は批判的反応があったにも関わらず初年度だけで100万部以上売り上げた。ニューヨーク・タイムズは感銘を受け、これぞ処女作だと書いたが、一方で文学ジャーナルは「度を越しすぎている」と呼んだ。中間どころだとウィルソン文学ジャーナルで批評家が「これはどうみてもゴミですが、私は好きですね」などと評した。四十年たっても未だキングはこのデビュー作について厳しく批判する。「私にとってキャリーとは一年生の時に焼いたクッキーのようなものです。食べるには十分だが、ゴツゴツしてるしちょっと底のほうが焦げてる」


本を買う人々はもっと熱烈で、キャリーはヒット作だという。この小説は十代やアウトサイダーであることがどういうことかを知っている大人には非常に共感を呼んだ。1975年にはキャリーは利益の多い特別映像に採用され、その後十年あまり人気が続いた。リメイク版は明日放映だ。ストーリーはテレビと劇場で使用されたものも採用している(1988年のブロードウェイ作品は黒歴史だが)


キャリーを産んだのはキングである。しかしキングを産んだのもキャリーなのだ。いまや19世紀におけるもっとも売れた作家としてキングは2003年のアメリカ文学普及貢献のメダルを獲得し、全米図書賞でのスピーチに招聘された。スピーチ中、彼は作品や成功そしてお金についての話をしなかった。彼がしたのはゴミ箱からキャリーを救いあげ、彼を勇気づけた女性、すなわちタビーに話だった。


「作家の人生では必ずそういう時がある。傷つきやすくなり、我々が『現実』と呼ぶどぎつい光のなかで明晰夢と子供時代の野望が色あせて見えるような時が――」これはセレモニーでのキングのスピーチである。「簡単に言ってしまえば、それは人生の分岐点にいる時なのです。私にとってその時とは1971年から1973年の間でした。妻がもし私に対し、せめて愛と優しさと寛大さを示してくれないかと言っていたなら……夢を捨て家族を養うときが来たのだともし彼女が言ったなら、私は文句を言わずそれに従っていたでしょう」


でもそんな思いは彼女の心に去来しなかったのだろう。だからキャリーのどの版を開いても、同じ謝辞を読むことができるのである。


“This is for Tabby, who got me into it—and then bailed me out of it.”




by Lucas Reilly

October 17, 2013 - 3:25pm

*1:タイプライターのこと

*2:車のこと