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もがいてる

俺たちいつまでも歳を取るのを楽しみにしてようなって話してる

ヴィヴィアン・マイヤー、その生涯と作品 - 2(by Nora O'Donnell)


http://www.vivianmaier.com/gallery/street-2/#slide-34

ヴィヴィアン・マイヤー、その生涯と作品 - 1
http://www.chicagomag.com/Chicago-Magazine/January-2011/Vivian-Maier-Street-Photographer/index.php?cparticle=1&siarticle=0#artanc


ある日ネガをファイリングしている最中に、29歳になったマルーフは有望な手がかりを見つけた。それは靴箱の底に溜め込まれていたもので、Highland ParkにいるらしいAvron Gensburgという人物の連絡先だった。ちょっとググってみるとMaierの死亡広告に言及されていた二人の人物、JohnとLaneとおもわれる人物の連絡先も見つかった。更にもう少し調べてみると、Maierは1956年から1972年にHighland ParkでAvronとNancy Gensburgと一緒に住んでいたことがわかった。彼女はそこで三人の男の子、John, Lane, Matthewの乳母をしていたのである。


現在Lane Gensbutgは54歳の税理士で、Maierについて覚えている最後の一人である。彼は生まれた時から彼を見守ってきた女性に対して悪印象などまるで抱いていない、むしろ逆だと断固主張する。彼女について話し始めると、彼の目は穏やかになる。「彼女はメアリーポピンズみたいでした。子どもたちと関わる天才でしたね」と彼は言う。


Maierは1956年のGensburgs氏が出稿した乳母募集に応募した。彼女がやってきた時、その外見はまさにメアリーポピンズそのものだったという。重そうな外套を羽織っている彼女は、頑丈な靴と長いレーススリップの上にロングスカートをはき、巨大な旅行かばんをぶらさげていた。彼女はかなり変わったふうだった、とNancy Gensburgは回想する。Maierは背の高い女性だった(5フィート8インチもあった)が、実際以上に彼女はすらりとしていたという。「それにすごく上品で――」Maierのトレードマークは首から下げたカメラだ。そして彼女はまさにフランス人だった。「見るからにフランス人でした、すごくフランクでね」Laneも「鼻も高かったし」と言う。

彼女はややフランス訛りの英語をしゃべっていたが、法律的にはフランス人ではなかった。GensburgがMaloofに渡した遺品の中にあった出生記録によれば、Vivian Dorothy Maierは1926年の2月1日にニューヨークで生まれている。母親はフランス人のMaria Jaussaud Maierで、父親はオーストリア人のCharles Maierだ。Vivianが4歳になるまでに彼女の父親は何らかの理由で離婚したようだ。彼女と母親は1930年の人口調査に突然現れたが、家長は49歳のJeanne Bertrandという名のフランス人女性である。この女性はポートレイトの写真家だった。1900年代はじめにBertrandは写真家としての成功し、幾つも賞を獲得した女性である。彼女の作品はGertrude Vanderbilt Whitney賞を受賞し、ニューヨークのホイットニー博物館のアメリカンアートに収蔵されている。テネシーのフリージャーナリストでBertrandと彼女と同時代の写真家の本を出版したJim Leonhirthは、MaierとBertrandには特に関係がなかったことを知っている。しかし、Maierと彼女の母親がニュージャージにすんでいたとき、Bertrandがよくそこのスタジオに出入りしていたことは認めている。


Maierと彼女の母親は当時長期にわたってフランスに帰国していたが、彼らが住んでいた場所はわからない。1951年の4月16日、25歳になったMaierha北西フランスにあるLe Havreから一人で出港し、10日後にニューヨークに着いた。Maierがそれからの5年間、ニューヨークでなにをやっていたかは定かではない――Maloofのコレクションにある写真を撮っていたこと以外で――が、生きていくための職、つまりその後一生にわたって続けた家政婦の職を選んだのはこの時だと思われる。


ごく親しい人々の間でさえ、彼女のバックグラウンドははっきりとしない。Gensburgsは彼女がいつ、どうしてシカゴへやって来たのかはわからないという。彼女はその洞察力と考え方からしてもっとたくさんのものを手に入れられてもおかしくなかった。「彼女は乳母なんかには全然興味がありませんでした。でも他のことをするにはどうすればいいか、知らなかったんです」とNancy Gensburgは証言する。


Gensburgの子どもたちは彼女が作り出すいっぷう変わった冒険が大好きだった。彼女は彼らにHighland Parkの限られた地域を越え、人生の探求をしてほしいと思っていた。彼女がそれをおしたように、「つついて」ほしかったのだ。Maierと子どもたちは芸術映画の最新上映を見に行き、Graceland式典の有名なモニュメントを訪れ、中国人の新年のパレードにまぎれこみ、またある時は森のなかにひっそりとはえている野いちごを探しまわったり――Maierは特にこれが好きだった――した。



子どもたちを連れて街へある旅行にいったのち、MaierはHighland Parkに帰ってきた。電車に乗っている間、Laneは高架鉄道脇のアパートの窓をさし「見て! クローゼットの中身が外に干してあるよ!」とヴィヴィアンに教えた。彼は鉄道沿いに服が干してある光景を見たことがなかったのだ。「Lane、みんなが乾燥機と洗濯機を持ってるなんて思ってるの?」とMaierがたずねるので、小さな少年は頷いた。「なんてこと…」と後に彼女は彼らの母親に嘆いたようだ。


「彼女は世界がどんなふうになっているのか、子どもたちによくみてほしいと思っていたようです」とNancy Gensburgはいう。


休暇になるとMaierはあてもなくあちこちドライブするか、映画を見に行ったものだ。もし誰か有名な人が街にいたら――例えばケネディ大統領とかエレノア・ルーズベルトとか――彼女はカメラでその撮影をしただろう。群衆をかき分けて進み、記念としてスナップを撮ったにちがいない。またあるときは彼女はプライベートのバスルームの中に閉じこもってしまった。彼女はそこを暗室にしていたからである。「私達は絶対そこにいれてもらえませんでした」とAvron Gensburgは回想する。Avronはアーケードゲームの製造メーカのトップを務め、定年した人物だ。「私達も別に入りたかったわけじゃないんですけどね」
Maierは友達に会いに行った話は全くしなかったし、恋人がいた形跡もなかった。もちろん夫もいなかった(もし誰かがMaier夫人などと呼んだ時には、彼女はむしろ辛辣な様子で「私はミスですよ。いままでもこれからもね!」と答えただろう)


Maierはコレクターだった。あるいはもしかするとこう表現するほうが適切かもしれないが、彼女はものをすてることが出来なかった。ネガ、カメラ、服、靴、録音テープ、文書類――おかげでMaloofの屋根裏はもはや雑然とした倉庫になってしまっている。彼女は特に新聞に弱かったようだ。彼女のGensburg家の小さなバスルームにはトイレの裏に新聞がつみあげられ、天井に到達するほどだった。しかしNancy Gensburgはこう指摘する。「彼女は新聞をとっておきたくてとっていたわけじゃないのよ。彼女が繰り返し読みたかったのはたいてい一つの記事だけですし、全然読むものがないときもありましたから」


1959年から1960年の半年間、Maierは一人で世界一周をした。彼女は家族についてはなしたことは一度たりともなかったが、Avron GensburgはMaierがAlsaceの小さな農場を受け継いでいたらしいことをおぼえていた。彼女はその農園を売り払い、そのお金でロサンゼルス、マニラ、バンコク、北京、エジプト、イタリア、フランス、ニューヨークと旅をしたのである。「彼女は行きたいとおもったら絶対に計画を立てて実行しますよ」とNancyはいう。家族はMaierが旅行に行っている間臨時の家政婦を雇ったが、彼女が一体どこへ向かっているのかは誰も知らなかった。「彼女が本当に何も語らなかったのかって不思議に思うでしょう。つまりあなたはこの話を知りたいでしょうけど……でも」彼女の声はかすれて小さくなった。「でも、これは彼女の秘密なんですよ。それだけです」


Maierはいくつかの写真をGensburg家の子どもたちとわけあっていたが、贈ったわけではなかった。「もし写真がほしいなら、買わなきゃだめよ」とNancyは真似をした。しかしMaierはお金のために写真を売ることはなかった。「彼女以上にそれを大事にしてくれる人じゃなくちゃだめだったんです。絵を描く芸術家もそうでしょう、作品が処分されるのは我慢ならない。彼女は撮影した写真を全部子供みたいに思ってましたから」

まだまだ続きます。