もがいてる

俺たちいつまでも歳を取るのを楽しみにしてようなって話してる

南方的堕落(蘇童) - 2

試訳

私は南方で育った。しかしこれはガチョウが運ぶ草木の種と同じで、自分で決めたことではない。私は久しく南方の生活に嫌悪を抱いてきた。香椿樹街は私にとって永久に刻まれるその象徴なのであった。

南方は堕落である一方魅力にも溢れている。あるスキンヘッドの映画監督の話である。一昨年の春のことであった。彼は香椿樹街を西から東へ歩いていた。五分ほど歩くと、和尚橋が見えてくる。ちょうど鳥がねぐらに帰る夕暮れ時、河にかかる和尚橋は古風ながらも優美だった。橋にはめ込まれた青い石は不思議とあたたかみが感じ荒れる光を反射し、そのようすは翡翠の海老のようでもあった。

電影導演:映画監督
剃光頭:光頭でハゲ、剃ってるみたいなのであわせてスキンヘッド?
走過:通り過ぎる
左右:~くらい
古老而優美:古老かつ優美 みたいな感じで使うらしい

なんでいきなりスキンヘッドがでてきた。。。?まあいいけども…蘇童は平易というが全く文法しらないので時間がかかるぜ

南方的堕落(蘇童) - 1

我従来没有如此深情地描摹我出生的香椿樹街、歌頌一条蒼白的缼乏人情味的石硌路面、歌頌两排無始無終的破旧丑陋的旧式民房、歌頌街上蒼蝿飛来飛去帯有霉菌味的空気、歌頌出没在黒洞洞的窓口里的那些体系矮小面容猥瑣的街坊鄰居。

試訳:
今までこれほどまでに愛情をもって出生の地、香椿樹街を描写したことはない。温かみを感じられない石畳はすばらしいし、ぼろぼろで見苦しい古い家々が二列になって延々とつながっているところは称賛に値する。あおい蝿が飛び交い、かび臭いにおいが充満しているさまには感服するし、まっくらな窓から見える隣人たちの小さくて下品な顔だちには言葉もない。




従来:いままで
没有:~ない
歌頌:賞賛
黒洞洞:まっくらな
香椿樹街:蘇童作品の中によく出てくる蘇州のある都市をモデルにした架空の街

いきなり辛辣でわらう。文法的にはやさしかった。

よろしくとかありがとうのニュアンスイメージ

toianna.hatenablog.com

こういう丁寧な英語は発注者相手とか銀行関係とかなら必要なんだろうが、ものすごく使うわけではないと思うのよね。くだけすぎててもアレだが、普通に使える結びの言葉をニュアンスつきで書いていきたいと思います。「お世話になっております(中略)よろしくお願いします」は基本的に英文メールでは結びの言葉に集約されてる感じ。

文頭

いわゆる誰宛かかくところ。

Dear Sam-san,

「Samさん」くらい。日本人と付き合いのある外国の方は日本人に対してだけはこんな感じで書くことが多い

Dear Bhav,

「Bhav様」。さんづけよりちょっと丁寧。社外の人とか、ちょっと込み入ったこと頼むときとか、今までメールしたことない社内の人とか、ちょっと怒ってる時など

Good morning Paul,

結構フォーマルだけどDearに比べると親しい感じ。Good afternoon, Good eveningなどでもややフォーマルに感じる

Hello Nick,

「こんにちは」くらい。ややカジュアル

Hi, hi

Helloよりややフォーマルだけど親しみを感じさせたい場合。まだ付き合いの浅い同僚相手にっていう感じ。

Hi Richard,

社内の普通の挨拶。

Hi,

「よ!」っていう感じらしく日本語ができる外国人は日本語でメールする時にリアルで「よ!」ってかく。

結び

Regards,

よろしく。ちょっとそっけない。あんまり親しくないかカジュアルな感じ。日本人のよろしくお願いしますはこのへん。

Best regards,

よろしくお願いします。普通にビジネスライクな感じ。

Kind regards,

お手数おかけしますがよろしくおねがいします。あまり親しくない相手や取引先、込み入ったお願いをするときなど。

Thanks,

どうも、くらい。やっといてね、みたいな場合に前もってありがとうを言っとく感じ。ややカジュアル。

Thanks!

ありがとう!なにかやってもらった場合。

Thank you,

よろしくお願いします、くらい。結びにあると、やっといてくださいねという圧力に感じる。

Thank you so much

どちらかと言うとなにかやってもらった時のお礼というかんじ。「ありがとうございます」ですね

Thank you for your support

込み入ったことをお願いする時、優先度高めでやってほしい時、一回お願いしたことが忘れ去られている可能性が高くて催促した場合とかに使うことが多い感じ。特に結びで使う時は圧を感じる。「念のためメール送ったけど忘れてないよね?よろしくお願いします」みたいな。
出だしにある場合は「いつもお世話になっております」という感じがする。

I appreciated your kindness,

平謝りしている感じ。でだしからこれだとめっちゃ謝ってる感じがする

I appreciate you

微妙に切れている感じ。早くやれよ的な圧を感じるけどまだ親しげな感じ

I appreciate your support / I'd appreciate your support / I appreciated your support,

ガチギレトーン。さっさとやれよ、このデコスケ野郎的なものすごい圧力を感じる。実際こういうこと書くと対応がクソ早い。

Thank you always

いつもありがとう、いつも悪いね、みたいな感じ。若干送り主のほうが恐縮している感じ。

Have a nice day

これ以上用がない場合や、了解みたいなメールの場合。

Have a nice holiday / Have a nice weekend

わりとフォーマルなんだとおもうが仲間内でやるとふざけてる感じになる

英語はいつからやっても上達する、は本当か? または英語がうまいより、英語をよく理解して正しく日本語で表現できる能力について

特に内容に異論はないのだが、英語はいつからやっても上達するかというと必ずしもそうではない、もう少し正確にいうと同じくらいの努力をしても人によって上達の差はある、といえる。これは母国語が何かにもよらないし、頭の善し悪しにもよらない。コミュ力は多少あるかも知れないが、しかしそれも全てではないのだ、と思う。


ちなみに僕はオーラルコミュニケーションはあまりよろしくないが、報告などでしゃべる場合はそこそこ普通にしゃべる。日本語訛りはもちろんあるけれども、ラテン語圏のひとからみてもまぁまぁ及第点レベルだそうだ。もちろん丁寧な言い回しとかはできませんし、語彙も少ないですけども。なお非オーラルになるとレベルは段違いにかわり、仕事するんでも雑談するんでも問題ないレベルになる(もちろん語彙は少ないですし時々すごく間違えますが)


ところでイギリスにはヨーロッパからたくさん人が来ている。南欧から東欧、果てはカムチャッカから来た(日本のほうが近いじゃないか)という人までいるが、みな英語をしゃべっている。そして、レベルはみんな違う。もう三十年近く英国に住んでいてもたどたどしい英語を喋る人もいれば、半年もいないのに流暢に話す人もいる。発音はものすごく綺麗だけど、ゆっくりとしか話せなくて、しかもしょっちゅう単語が出てこないという人もいる(もちろんそれでも文法的な間違いはないし俺よりは流暢にはなすのだが)。同じ国から来ていても長く住んでいる人のほうが下手、ということもある。
もちろん確かにスラブ言語をしゃべる人々のほうが英語を苦手としているという傾向はあるのだけれども、ポルトガルやスペイン、イタリアあたりからくるラテン言語圏のひとびとでも英語の習熟度は人によっていて、人が好きでとにかくしゃべりまくるタイプでも下手ということは往々にしてあるのだ。つまり、言語が上達するスピードはやる気やコミュ力母語によらないのである。たぶん耳あるいは脳内の言語処理方法の違いなのだろうと僕は思う。僕はデベロッパーで複数プログラミング言語を使うが、デベロッパーでも英語の流暢さは人によるので、読み書きと話す聞くは関連性がないらしい。



努力したからってできるようにはならない(もちろんジリジリと能力は上がります)し、誰だって外国語ができるようになる、というのはまやかしだ。



でもだからって絶望する必要はない。英語――外国語は別にうまくなる必要はないのだ。外国人だとわかれば外国人だということで処理されるのが世界の常識である。嫌な顔をされることもあるが、親切な人はどこにでもいる(もちろん騙そうとするのもいるので注意は必要である)。それよりも大切なのは英語をよく理解することだ。下手でも相手の意図を汲んでそれにこたえる能力があれば、たとえ扱いは外国人だったとしても、十分にコミュニティに入ることができる。そしてさらにその理解した内容を母国語できちんと表現する、もしくは母国語の内容を下手なりに簡潔に外国語で表現できれば、できることはたくさんある。必要ともされる。rとlが上手く発音できてないなんて一度たりとも言われたことがない。chocolateをtoiletと間違えられても(確かに音節は同じだ)それは笑ってしまえばいいことだ。発音悪くてごめんねといったことは数限りなくあるが、紙とペンがあれば最終的にはなんとかなるのである。


言葉をよく理解し、正しく表現するのは、外国語の能力ではない。母国語で培われる能力だ。母国語を磨くことで得られる能力だ。確かに公衆の面前でスピーチをするような立場のひとであれば、流暢で美しい発音を求められるだろう。だが、ほとんどの日本人にはそういうことは求められていないのだから、もっと日本語を勉強してほしい。日本語はしゃべるのは簡単だが、正しく読み書きするのは非常に難しい言語だということを忘れないでほしい。

現地で暮らしながら英語上達マップについて考えてみる

以前におれは聴覚処理障害では?ということをかきましたが、イギリスにきて三週間ばかりたって経過に変化が見られたので記録しておく。

とりあえず俺の英語レベルは集中して聞けば60~80%くらいは理解できるが何か質問されるとよくわからない&話すのは5単語以下のセンテンス&読み書きは普通程度にはできるが、文学的なセンテンスはちょっと調べる必要がある、単語レベルは6000~8000の間くらい。ものすごくよく出来るわけではないが、全くできないわけではない、文字ベースならビジネスレベルはOKというじつにびみょーなあたりだ。そんなおれがイギリスに来た。


最初に思ったこと。
嫌味はわかる!


どこの国でも、どんな言語でも、ぼくは聞き取れなくてもだいたい理解できるので、英語ならもう少し理解度は上がるかなと思ったが、現実はそんなに甘くなかった。英国人の英語、早い。速い。聞き取れない。あと知らない単語や言い回しを使っている。英語ができない人のそれではない。これはあかんやつや。しかも相手が速いので焦る。ゆっくりしゃべるとかできないので、結局単語を並べる。"Today is underconstruction"とか間違っているのはわかってても使ってしまう。
結局よくわかるのは、ネイティブでない人の英語ばかり(彼らゆっくりしゃべるので)で、ネイティブの英語は本当に聞き取れない。イギリス英語だということを抜きにしても、だ。
ま、でもところどころ単語は聞き取れるし、集中加減は他の言語ほどではないし、それほどたたずともリスニング能力は上がってくるかなと思ったんです。
しかし、三週間経って。


リスニング能力はたしかに少し上がった。
店で言われることはだいたい聞き取れるし、多分ディクテーションもできる。即座に反応できるかどうかは別として、一瞬頭の中に文字を浮かべることはできる(すぐ忘れますけど俺の場合)。


しかし、聞き取れる内容が減った。


ちょっとそれでショックを受けてしまいまして、なんでだろうってつらつらと考えていたんですね。で、一つ仮定を思いついたんです。


僕の場合、耳に入った音を適当に変換してダイレクトにイメージに変換します。イメージに変換できなかった情報は取りこぼしてしまう感じ。
これを図解すると

一般的なひと:
音 -----> [変換器] ----> {文字、画像、音、その他、ゴミ}

俺:
音 -----> [変換器(故障中)] ----> {画像、ゴミ}

この時点で結構情報を損失している。ただ、長く生きているとこの変換器にもある程度自分でカスタマイズできるらしくて、日本語の場合は以下のようになる
俺:
音 ----> [日本語の文字パターンが脳内にあるか?]
      ├-ある --> フィルタに通す---> {文字、画像、ゴミ}
      └-ない ---> {画像、ゴミ}


知らない言語の場合パターンが存在しないので、フィルタにかける処理をそもそもしないor もしくは素通りをしているようなのです。なので表情や身振り手振りなどから情報を推測することができる。それである程度理解することができる、らしい。
一方知っている言語の場合。日本語もそうだが、知っているパターンに当てはまらなかった場合はすべてゴミになってしまう。わかれば人並みに音を理解することができるが、わからなかった場合は完全にゴミ。フィルタがなかった場合はなんとか画像に変換したものもゴミとして捨ててしまうのではないか?
少々慣れてきた英語も以前より分からない現象が発生しているが、これはフィルタが少しずつ構築されているせいかもしれない。まだ総数が少ないのでフィルタに通したところで引っかかるものは少なく、少しでも引っかかった上で解析できないとゴミとして捨ててしまうので、画像変換がされないのだ。したがって以前は理解できたことも理解できなくなってしまう。もしかすると短文や疑問文が理解しにくいのもこのフィルタ処理があるせいなのかもしれないな、と今は思っている。


ここから再び理解度を上げていくには、フィルタ処理で合致するパターンを増やすしかないので、たくさん見聞きする他ないのだが、お互いによくわかんない。。。というプロセスを越えていかなければならないので険しいなぁ…あぁ、どうする俺!(このままここにすむ以外に選択肢はありません)

The World's Fastest Camera Can Capture Chemical Reactions in Action/世界最速カメラ、化学反応を撮る

The World's Fastest Camera Can Capture Chemical Reactions in Action

もしハイスピードカメラの進歩は止まったと思っているなら、今すぐ考えなおすべきです。日本の二つの大学が、従来の1000倍もの性能をもつハイスピードカメラを開発したのです。なんと一回の撮影で化学反応を捉えることもできるそうです。

東京大学と慶応大学の共同研究で開発されたこのハイスピードカメラは連続時間全光学マッピングフォトグラフィと呼ばれる技術を使用しています。1兆分の1秒以下のスピードで連続的にシャッターを切ることができ、解像度は450x450ピクセルです。研究者はこの仕組みを次のように説明しました。

モーションピクチャ・フェムトフォトグラフィと呼ばれるこの手法は、連続的に変化するバーストストリーム映像を空間的・時間的分布に撮影した映像から、時間変化する空間プロファイルで全光学マッピングするという原理を使っています。

本質的には、この手法で撮影する場合、繰り返し同じ場面を撮影する必要はありません。そのおかげで通常の1000倍もの性能を出すことが可能になったのです。今のところこのカメラの見た目はあまりよろしくなく、もちろん軽くもありません。なんと1平方メートルものサイズがあります。ですが、呆れるほど、はやい。
これまでのところ、研究者はシングルショットではビジュアル化しにくかった分野、たとえば化学反応だとか、熱伝導などの撮影に使えると考えています。熱は光の1/6くらいのスピードで進むので、このカメラでようやく撮影できるようになったというわけです。速いですね!

ヴィヴィアン・マイヤー、その生涯と作品 - 2(by Nora O'Donnell)


http://www.vivianmaier.com/gallery/street-2/#slide-34

ヴィヴィアン・マイヤー、その生涯と作品 - 1
http://www.chicagomag.com/Chicago-Magazine/January-2011/Vivian-Maier-Street-Photographer/index.php?cparticle=1&siarticle=0#artanc


ある日ネガをファイリングしている最中に、29歳になったマルーフは有望な手がかりを見つけた。それは靴箱の底に溜め込まれていたもので、Highland ParkにいるらしいAvron Gensburgという人物の連絡先だった。ちょっとググってみるとMaierの死亡広告に言及されていた二人の人物、JohnとLaneとおもわれる人物の連絡先も見つかった。更にもう少し調べてみると、Maierは1956年から1972年にHighland ParkでAvronとNancy Gensburgと一緒に住んでいたことがわかった。彼女はそこで三人の男の子、John, Lane, Matthewの乳母をしていたのである。


現在Lane Gensbutgは54歳の税理士で、Maierについて覚えている最後の一人である。彼は生まれた時から彼を見守ってきた女性に対して悪印象などまるで抱いていない、むしろ逆だと断固主張する。彼女について話し始めると、彼の目は穏やかになる。「彼女はメアリーポピンズみたいでした。子どもたちと関わる天才でしたね」と彼は言う。


Maierは1956年のGensburgs氏が出稿した乳母募集に応募した。彼女がやってきた時、その外見はまさにメアリーポピンズそのものだったという。重そうな外套を羽織っている彼女は、頑丈な靴と長いレーススリップの上にロングスカートをはき、巨大な旅行かばんをぶらさげていた。彼女はかなり変わったふうだった、とNancy Gensburgは回想する。Maierは背の高い女性だった(5フィート8インチもあった)が、実際以上に彼女はすらりとしていたという。「それにすごく上品で――」Maierのトレードマークは首から下げたカメラだ。そして彼女はまさにフランス人だった。「見るからにフランス人でした、すごくフランクでね」Laneも「鼻も高かったし」と言う。

彼女はややフランス訛りの英語をしゃべっていたが、法律的にはフランス人ではなかった。GensburgがMaloofに渡した遺品の中にあった出生記録によれば、Vivian Dorothy Maierは1926年の2月1日にニューヨークで生まれている。母親はフランス人のMaria Jaussaud Maierで、父親はオーストリア人のCharles Maierだ。Vivianが4歳になるまでに彼女の父親は何らかの理由で離婚したようだ。彼女と母親は1930年の人口調査に突然現れたが、家長は49歳のJeanne Bertrandという名のフランス人女性である。この女性はポートレイトの写真家だった。1900年代はじめにBertrandは写真家としての成功し、幾つも賞を獲得した女性である。彼女の作品はGertrude Vanderbilt Whitney賞を受賞し、ニューヨークのホイットニー博物館のアメリカンアートに収蔵されている。テネシーのフリージャーナリストでBertrandと彼女と同時代の写真家の本を出版したJim Leonhirthは、MaierとBertrandには特に関係がなかったことを知っている。しかし、Maierと彼女の母親がニュージャージにすんでいたとき、Bertrandがよくそこのスタジオに出入りしていたことは認めている。


Maierと彼女の母親は当時長期にわたってフランスに帰国していたが、彼らが住んでいた場所はわからない。1951年の4月16日、25歳になったMaierha北西フランスにあるLe Havreから一人で出港し、10日後にニューヨークに着いた。Maierがそれからの5年間、ニューヨークでなにをやっていたかは定かではない――Maloofのコレクションにある写真を撮っていたこと以外で――が、生きていくための職、つまりその後一生にわたって続けた家政婦の職を選んだのはこの時だと思われる。


ごく親しい人々の間でさえ、彼女のバックグラウンドははっきりとしない。Gensburgsは彼女がいつ、どうしてシカゴへやって来たのかはわからないという。彼女はその洞察力と考え方からしてもっとたくさんのものを手に入れられてもおかしくなかった。「彼女は乳母なんかには全然興味がありませんでした。でも他のことをするにはどうすればいいか、知らなかったんです」とNancy Gensburgは証言する。


Gensburgの子どもたちは彼女が作り出すいっぷう変わった冒険が大好きだった。彼女は彼らにHighland Parkの限られた地域を越え、人生の探求をしてほしいと思っていた。彼女がそれをおしたように、「つついて」ほしかったのだ。Maierと子どもたちは芸術映画の最新上映を見に行き、Graceland式典の有名なモニュメントを訪れ、中国人の新年のパレードにまぎれこみ、またある時は森のなかにひっそりとはえている野いちごを探しまわったり――Maierは特にこれが好きだった――した。



子どもたちを連れて街へある旅行にいったのち、MaierはHighland Parkに帰ってきた。電車に乗っている間、Laneは高架鉄道脇のアパートの窓をさし「見て! クローゼットの中身が外に干してあるよ!」とヴィヴィアンに教えた。彼は鉄道沿いに服が干してある光景を見たことがなかったのだ。「Lane、みんなが乾燥機と洗濯機を持ってるなんて思ってるの?」とMaierがたずねるので、小さな少年は頷いた。「なんてこと…」と後に彼女は彼らの母親に嘆いたようだ。


「彼女は世界がどんなふうになっているのか、子どもたちによくみてほしいと思っていたようです」とNancy Gensburgはいう。


休暇になるとMaierはあてもなくあちこちドライブするか、映画を見に行ったものだ。もし誰か有名な人が街にいたら――例えばケネディ大統領とかエレノア・ルーズベルトとか――彼女はカメラでその撮影をしただろう。群衆をかき分けて進み、記念としてスナップを撮ったにちがいない。またあるときは彼女はプライベートのバスルームの中に閉じこもってしまった。彼女はそこを暗室にしていたからである。「私達は絶対そこにいれてもらえませんでした」とAvron Gensburgは回想する。Avronはアーケードゲームの製造メーカのトップを務め、定年した人物だ。「私達も別に入りたかったわけじゃないんですけどね」
Maierは友達に会いに行った話は全くしなかったし、恋人がいた形跡もなかった。もちろん夫もいなかった(もし誰かがMaier夫人などと呼んだ時には、彼女はむしろ辛辣な様子で「私はミスですよ。いままでもこれからもね!」と答えただろう)


Maierはコレクターだった。あるいはもしかするとこう表現するほうが適切かもしれないが、彼女はものをすてることが出来なかった。ネガ、カメラ、服、靴、録音テープ、文書類――おかげでMaloofの屋根裏はもはや雑然とした倉庫になってしまっている。彼女は特に新聞に弱かったようだ。彼女のGensburg家の小さなバスルームにはトイレの裏に新聞がつみあげられ、天井に到達するほどだった。しかしNancy Gensburgはこう指摘する。「彼女は新聞をとっておきたくてとっていたわけじゃないのよ。彼女が繰り返し読みたかったのはたいてい一つの記事だけですし、全然読むものがないときもありましたから」


1959年から1960年の半年間、Maierは一人で世界一周をした。彼女は家族についてはなしたことは一度たりともなかったが、Avron GensburgはMaierがAlsaceの小さな農場を受け継いでいたらしいことをおぼえていた。彼女はその農園を売り払い、そのお金でロサンゼルス、マニラ、バンコク、北京、エジプト、イタリア、フランス、ニューヨークと旅をしたのである。「彼女は行きたいとおもったら絶対に計画を立てて実行しますよ」とNancyはいう。家族はMaierが旅行に行っている間臨時の家政婦を雇ったが、彼女が一体どこへ向かっているのかは誰も知らなかった。「彼女が本当に何も語らなかったのかって不思議に思うでしょう。つまりあなたはこの話を知りたいでしょうけど……でも」彼女の声はかすれて小さくなった。「でも、これは彼女の秘密なんですよ。それだけです」


Maierはいくつかの写真をGensburg家の子どもたちとわけあっていたが、贈ったわけではなかった。「もし写真がほしいなら、買わなきゃだめよ」とNancyは真似をした。しかしMaierはお金のために写真を売ることはなかった。「彼女以上にそれを大事にしてくれる人じゃなくちゃだめだったんです。絵を描く芸術家もそうでしょう、作品が処分されるのは我慢ならない。彼女は撮影した写真を全部子供みたいに思ってましたから」

まだまだ続きます。