もがいてる

俺たちいつまでも歳を取るのを楽しみにしてようなって話してる

ヴィヴィアン・マイヤー、その生涯と作品 - 1 (by Nora O'Donnell)

http://www.chicagomag.com/Chicago-Magazine/January-2011/Vivian-Maier-Street-Photographer/index.php?cparticle=1&siarticle=0#artanc


長いので数回に分離します。


http://www.vivianmaier.com/gallery/self-portraits/#slide-16

日陰の人生


North Shore家に乳母として雇われていたVivian Maier――親切だがエキセントリックな女性として知られている彼女は、箱のなかに私生活をこっそりとしまいこんだままこの世を去った。彼女の死後、これを発見するチャンスを得たのはある一人の男である。彼の名はJohn Maloof――彼こそが、Vivian Maierの写真家としての才能にスポットライトを当て、大量の作品に関する評価を育てたのだ。


2007年の終わりごろは彼にとって忘れられない時間だろう。ジョン・マルーフは若い不動産エージェントだったが、その日は地域のオークションハウスで時間を潰していた。Portage Parkで行われているRPN市では、細々と分類された不要品やリサイクル品――どれもジャンク品だ――が集められる。
小売リサイクル業者として、マルーフは歴史的な写真でも見つけられればいいと思っていた。彼はちょうどその時、副業としてPortage Parkに関するちょっとした本を共同執筆していたからだ。そして彼はある箱に出会った。その箱は収納ロッカーの中に打ち捨てられていたもので、ざっと見てみると大量の白黒写真が入っていた。しかもその写真は1950~60年代のシカゴ市の中心商業地区が映っている。彼はなにか面白いものがありそうだと直感し、400ドルを投げ出して箱を家に持ち帰ったのだった。精査の結果、Portage Parkの景色はひとつもないことがわかった。だが、箱にはまだ30000以上のネガが残っていた。Maloofはひとまず全部クローゼットの中に放り込んでしまった。


読者の皆さんにはいろいろ言いたいことがあるだろうが、このような行動様式は、たぶんシカゴの西海岸に育った貧しい子供なら、そして巡回する蚤の市で働いたら、たぶん勝手に身についてしまう類のものだ。彼は写真について何も知らなかったが、最終的には箱をひっくり返してネガをとっくりとながめ、それからおもむろにPCに取り込み始めた。この無名の芸術家を保存する時間は実に楽しいものだった。汚れた商店の窓の隅っこからそっと顔をのぞかせたこじゃれた少年、公園の木のベンチに無理に割り込もうとするでかいケツ、スリーピースのスーツを着ているにもかかわらず、仰向けになって車のフロントシートでうたたねしている男、彼の右腕が光を遮り、彼の顔は影になっている。ああ、とマルーフは思った。なんかすごくクールだ。誰がこれを撮ったんだろう?


オークションハウスの窓口担当は、その写真家の名前を知らなかった。ただ、収納ロッカーの中にあったものは、ある年老いた病気の女性の所有物だったという情報は教えてくれた。時が過ぎ、Maloofは同じ女性のもの思われるネガを所有している人々を突き止めた。彼はその箱の中身を買った。次第にコレクションの維持にはコストがかかるようになってきたので、彼はごく自然にそれを換金することにした。まず、彼はネガを分割し、eBayで宣伝した。ネガは驚くほどの人気になり、なんと80ドルの値がついたものまであった。Maloofもさすがに、自分はなにか素晴らしい物に遭遇しているのだ、と気づいた。そしてこの無名の写真家を突き止めようと決めたのである。


RPNで最初の箱をかって一年以上が過ぎていた。2009年4月末のある日、Maloofはついにきっかけをつかんだ。写真現像室の箱の底に眠っていた封筒を発見したのである。鉛筆で書かれていたのは名前――Vivian Maierとあった。彼は試しにググってみたが、検索結果は一件しか表示されなかった。しかもそれは、シカゴTribuneの記事で、わずか数日前にポストされたものだった。内容は83歳女性の亡くなったことを知らせていた。「ヴィヴィアン・マイヤー、この誇り高いフランス人はシカゴで50年暮らし、先の月曜に静かに亡くなられました。ジョンとレーヌ、マシューの第二の母であり、自由で、しかも彼女を知っているどんな人でもその人生に触れれば魔法にかけられたように意気投合したものです。いつも彼女は助言や意見をくれましたし、助けの手を差し伸べることを惜しみませんでした。類まれな映画評論家かつ写真家でもあります。彼女の死は惜しまれますが、その素晴らしい人生について私達はみな祝福し、そして決して忘れることはないでしょう。本当に素晴らしい人物でした。」


Tribuneへ電話して不完全なアドレスと繋がらない電話番号を手に入れた後、Maloofはどこへたち戻るべきかわからなってしまった。とはいえその間も彼はMaierの作品をvivianmaier.comに掲載し始めていたし、2009年の10月には彼はブログと写真シェアサイトであるFlickrにリンクさせ、Maierの写真に関する疑問を投稿するようになっていた。この疑問「これでなにができるだろうか?(誰かにあげる以外で)」は主にストリートフォトグラフィーについて語り合う掲示板で議論された。


議論はウィルスのように広まった。様々な提案が怒涛の勢いで寄せられ、世界中から彼のブログにアクセスが集まった(GoogleでVivian Maierと検索すると、今では18000件以上もの検索結果が見れる)。Maloofは彼が思ってた以上に大きな事態になっていることを悟った。


この点に関して彼の認識は正しかった。彼は試験的にVivian Maierの写真をいくつかオンライン出版したが、彼女の作品は熱狂的なフォロワーを集めた。彼女の写真はイタリア、アルゼンチン、そしてイギリスの新聞でアピールされた。デンマークノルウェイでは展示会が行われたし、シカゴ文化センターでは1月にショーが開かれる予定になった。いくつかの写真はMaier自身以外誰もみたことがないもので、Maloof自身も彼女が残したものの表面をひっかいていただけにすぎなかった。彼は集めた彼女のネガは10万枚くらいだと見積もっている。また別のMaierのコレクターであるJeff Goldsteinは12000枚以上を所有している(幾つかはvivianmaierphotography.comに掲載されている)。ほとんどのMaierの写真は白黒で、ラフな構図が特徴のカジュアルな写真だ。どれも人々の動作――一瞬の表情だが、根底にはある種の重力と感情がこもっている――を撮ったものである。そしてMaierはかなり遠く広くカメラを持って活動していた。ネガの中にはロサンゼルス、エジプト、バンコク、イタリア、南西アメリカのものがふくまれていたのだ。Maierの作品にひそむ驚くべき広さと深さはMaloofの中に二つの疑問を呼び起こした。Vivian Maierとは何者なのか、そして彼女の突出したビジョンをなんと説明すべきなのか? 彼女の魅力的な写真と同じくらい、この疑問は人を引きつける強さがある。

アジャイルは死んだ。しかしアジャリティは滅びんよ、何度でもよみがえるさ!

http://pragdave.me/blog/2014/03/04/time-to-kill-agile/

タイトルごめんなさい。

13年前、ユタのスノーバードに17人の中年白人男性が集められたが、私はそのうちの一人だった。私達はソフトウェア開発について共通する信条をシェアするためにそこに集まったのだが、自分たちが思っていることを書き記す方法があるんだろうか疑問に思っていた。
しかし、有用性の短いリストが出来上がるのには一日もかからなかった。私達はその有用性を、実例のリストと一緒に出版して「アジャイルソフトウェア開発宣言」と銘打った。


プロセスやツールより個人や興味
わかりやすいドキュメントより動くソフトウェア
契約の交渉より顧客との協力
計画に従うより変化に対応する


私は私達がやったこと、つまり私達はプロセスにも生み出した結果にも誇りを持っていた。また80年代や90年代に見られた無駄で、精神を破壊するような実例から、この宣言が開発エンジニアを救ったと思っている。
しかしスノーバードの会議ののち、私はアジャイルのイベントに一つも参加しなかったし[1]、アジャイル協会とも親しくしなかった。「アジャイル」のコンサルタントもしていないし、アジャイルの10周年記念にさえ参加していない。


なぜか。


これらの活動は私達の生み出した宣言の精神とは少しも一致しないからである。アジャイルカンファレンスの開催はバレエ競技会とさしてかわらない。それにこの4つの価値にまつわる産業界を形成するのは、生きる人々のために労働組合を作るのに等しく、そのことに私は毎度打ちのめされるのである。
しかも残念なことに、時が私の正しさを証明してくれた。「アジャイル」という言葉はある地点で事実上意味を失い腐敗してしまったのである。そしてそれ以降アジャイルコミュニティは、サービスや製品を食い物にするコンサルタントやベンダーのための広い活動の舞台になってしまったようだ。


アジャイル」を引退させる時が来たのである。


アジャイルが名詞として使われている場合、まぁたぶんこの言葉を追放したくなるだろう。これは単なる平易な間違いである。「アジャイル正しさをする」とか「バカのためのアジャイル」とかいうのは、英語に対する無数の攻撃のうちの二つである。この文章は意味不明だ。アジャイルは名詞ではなく、形容詞なのである。形容詞は他のものを修飾しなければならない。「アジャイル正しさをする」は「オレンジ色な正しさをする」と同じようなものだ。
しかし文法問題を脇に奥としても、まだより大きな問題が存在している。かつてあの宣言が一般に広まった時、アジャイルということばは人々をひきつけた。惹きつける点は様々だ。信奉だとかお金だとか、あるいは売れる製品のためだったりする。とにかくアジャイルはマーケティングの手へ渡り、エコとかナチュラルみたいにセールスを促進するための道具に成り下がってしまったのだった。このようにして乱用された言葉は無益になってしまう――そのもののもつ意味を失い、ブランドになってしまうのである。


これは沢山の人を傷つけるだろう。だが私ノ場合、開発者がダメージを受けることをとても心配する。コードを書くのは簡単ではないし、ソフトウェア開発者は往々にして、価値の拡散をより効果的にしてくれるものに対してアンテナを張っているものだ。私は有用性を守り、宣言通りにものごとを推し進めることで彼らの努力は報われると固く信じている。
しかし一度アジャイルという言葉が意味を失ってしまえば、ソフトウェア開発者はもはやそれを彼らの実業務における有用な道標として使うことができなくなってしまう。私達はもっと単純に、世界的にもアジャイルという言葉を消し去るべきである[2]。

Moving to the Right

もう一度4つの有用性を見てみよう



プロセスやツールより個人や興味
わかりやすいドキュメントより動くソフトウェア
契約の交渉より顧客との協力
そして計画に従うより変化に対応することを重要視する


左側のフレーズ(日本語の場合は右側)は理想を表している――右を選ぶか左を選ぶかは個人の自由だが、ソフトウェアを「アジャイルに」開発する人なら左側(日本語の場合は右)に賛成するはずだ。


さてあなたに「アジャイル」を始めさせたというコンサルタントやベンダーを考えてみよう。彼らは軸の左右、どちらにいるだろうか。私が予想するに、彼らが製品を提案するときに使う(コンサルタントはマネージャを喜ばせるためにドキュメントがたくさん必要だというものだ)ツールやプロセスは重く、かなりの確率でホワイトボードやメモ帳に内容を書く以上にきちんとした計画が求められる。
もしあなたのところでもそんな光景が見られるなら、それがなによりの証拠だ。「アジャイル」はすでに崩れ、価値を失っている。
(もちろん、コンサルタントの中には2日間のトレーニングコースを受講した人もいるかもしれない。私はそうではないので、つまり彼らはアジャイルをマスターしているが私はそうではない。そういう意味で私は間違っているのかもしれない)

Back to the Basics/基本にかえる

アジャイルの流行の中でなにをどうすべきかというのを下記に示した

なにをすべきか:

  • 自分のいる場所についてよく考える
  • ゴールに対して小さなステップを取る
  • 学んだことをベースとして理解を調整する
  • 繰り返す


どうやってすべきか:


ほぼ同じ価値を生み出せる手段が複数ある場合、将来的な変更ができるだけ少ないパスを選ぶ

そしてこれが本来の「アジャイル」なのだ。なにをすべきかの4項目とどうやってすべきかの1項目は、効果的なソフトウェア開発について知ることになるすべてを内包している。もちろんかなり大量の試行錯誤をせねばならないだろうし、なにをすべきかの4ステップはフラクタルな入れ子になっている。変数の命名から長期間に渡る安定版リリースまでに何度もこのネストの中を通らなければならないが、より大きく複雑なプログラムを組む人だけが、ものを売ることができるのである。


これらの文章の全ては義務である。すなわち我々は「なにをすべきか」「どうすべきか」を語るために動詞に基づいていなければならない。
そしてそれが私の提言に導いてくれる。
ことをなさない人々のためのアジャイルという言葉をすてさろう。
その代わりに我々がやるべきことを書いた言葉を使おう

Let’s develop with agility/「身軽」な開発をしよう

  • あなたはアジャイルプログラマではない。すばやくプログラムを書くプログラマだ。
  • あなたはアジャイルチームで働いているのではない。あなたのチームには機敏性があるのだ。
  • あなたはアジャイルの道具を使っているのではない。その道具があなたの機敏性を高めてくれるのだ。


何事に関しても「アジャイル」という言葉を付け加えるのは難しくない。でも機敏性を横取りするのは困難だ。
そして重要なのは、ラベルは売り買いできるということだ。短い講座に参加すれば突然あなたは職種にたいしてラベルをつけることができる。しかしあなたは経験を買うことはできない。ただ獲得することが出来るだけだ。

And let’s protect our investment/我々の投資を守ろう

究極的には我々がやることは我々が「それ」と呼ぶものに勝つことである。しかし良い言葉は私達のコミュニケーションを効率的にしてくれる。
我々はアジャイルという言葉を失ってしまった。機敏性にしがみつこう。その意味をあるままに維持しよう。そして我々のアイデアから魂を抜き取って売りつけようとする輩からそれを守るのだ。


Updated 3/11: Thanks to numerous folks who pointed out I’d mislabeled “agility” as an adverb. Also fixed the hyperlink to the Agile Manifesto.


※1. アジャイルインド2014(私がアジャイルに関してただ一回だけ参加したカンファレンスだ)に参加してから、このブログの記事を書こうと思うようになった。カンファレンスに参加したのはトピックに興味があったからではなく、尊敬するオーガナイザー、Naresh Jainが参加していたからだ。


※2 そう、そのとおりで、私は自分自身でしかけた罠にかかってしまったのだった。Ruby on Railsがやってきたとき、私はRubyが私に与えた機敏性に旨をうたれた。実にWebプロジェクト上でよく動いていると思う。だから私は「Railsを使ったアジャイルウェブ開発」を書いたのだ。今あの本を書いているとしたら、タイトルは多分全然違ったものになっていただろう。

Posted by Dave Thomas Mar 4th, 2014

うーん、こなれない。

コードレビューの「時間」は必要ない? by Martin in 8th color

http://blog.8thcolor.com/en/2013/10/we-dont-have-time-for-code-reviews/
We don’t have time for code reviews

OH

数年ソフトウェア開発者として働いたことがあるなら、多分二、三こんな説明を聞いたことがあるはずだ。


「コードレビューはすごくしたいんだけど、スケジュールがタイトでさ…」
「品質は大事だよ。でもエンジニアを他のエンジニアの仕事のチェックのために使うようなリソースはないんだ」
「今日の午後のコードレビューミーティングは取りやめよう。とりあえずまずsprint storyを終わらせなきゃ」

もしくはこんなことを決意する。


「コードレビューをする時間は取らなくたっていい。確かにやるべきだけどできないんだからしかたがない。すっごく有用だと思うので、できないのは残念だけど」

My secret/秘訣

さて、ここで秘訣を暴露しよう。僕達はコードレビューをする時間をとってないし――なんてこった、Githubにそのタスクを入れてさえもいない。
でも僕達はコードレビューをする。コードの些細なところまで全部レビューするのだ。なぜなら、コードレビューはタスクではないからである。

Code Review/コードレビュー

秘訣を話す前にちょっと別の話をする。
何年か前、僕は大きな会社の開発チームで働いていた。最初はエンジニアとしてだったけど、そのうちチームのリーダになった。僕たちはある時期から単体テストをはじめて、すぐにそれをチーム内の「よい習慣かつ必須」のものにしていった(僕は良い習慣というのはチームのみんなに適用される必要があって、ある種の「共同体的強制力」が必要されるものだと思っている)。でも僕が上司にできたことや進行中のことを報告するとき、単体テストについては話題に触れなかった。


なぜか?

ユニットテストは切り分けられるようなタスクじゃないからだ。単体テストは機能追加やバグ修正の一部だ。同じように僕は「コミット」や「ドキュメント」もタスクじゃないと思っている。これで僕らは「単体テストを作る時間を設けるべきか会議」をいくらか回避することが出来た。


単体テストはそこではタスクじゃなかった――単に開発タスクの中の(強制的な)一部分だったのだ。

Definition of Done/完了の定義

共通する完了の定義は実際のところ極めて重要な何かに依存しているし、チーム(もちろんアジャイルの場合も同じ)を管理する。たとえばこの記事をいつ「作業中」から「完了」に移行すればよいのだろうか。移すというのはなにを意味しているのだろうか。
以前の僕のチームは、コードが書かれ、テストされる(単体テストで)ことが完了を意味していた。テストが書かれていなければ、終わったことにはならない。
とても単純だ。

Today

8th colorでも単体テストのタスクはないし、チケットリストの中にたとえば「コードレビュー」というチケットを見つける事はできないだろう。なぜなら、もう一回言うけど、コードレビューはタスクとは切り離せない。コードレビューはUser Storyの一部だからだ。

もっとも、僕は嘘をついた。Githubの中にコードレビューのチケットはある。Pull Requestとして上がっているからだ。でもこれについて考えるときPullRequestは単なる状態だということが分かるだろう。状態っていうのはつまりチケットが「レビュー可能な状態になった」ってことだ。このシンプルなステップを表現するのはコードレビューのワークフローに沿っていて極めて実際的だ。
(略)

This entry was posted in technical and tagged code review on October 23, 2013 by Martin.

いかにしてスティーブン・キングの妻はキャリーを救い、また夫のキャリアを始めさせるに至ったか

http://mentalfloss.com/article/53235/how-stephen-kings-wife-saved-carrie-and-launched-his-career

1973年、スティーブン・キングの財布は空だった。彼はトレーラーハウスに住んでいて、梱包材とダクトテープでまとめた錆びついたバケツを下げてあちこち走り回っていた。彼はメイン州東方にある私立ハンプデン・アカデミー高校で英語の教鞭をとっており、彼の妻タビーはダンキンドーナツで働いていた。そんなふうにかろうじて生計を立てているといった具合だったので、キングは夏の間はクリーニング屋や警備員のアルバイト、それからガソリンスタンドなんかでも働かなければならなかった。しかも幼児と乳幼児を抱えていたから、お金も、そして小説を書く時間もなかなか取れなかったのだった。
キングはタイプライターを持っていなかったので、タビーが大学時代から使っていたオリベッティ*1を使わねばならなかった。彼女は洗濯部屋に間に合わせの机を設置した。洗濯機と乾燥機の間にぴたりと嵌り込むくらいの大きさだ。毎晩、タビーがおむつをかえ、夕飯を作っている間、キングは鞄の中でしっちゃかめっちゃかになっている書類の束を忘れ、洗濯室でただ書くことだけに集中した。
早晩結果は期待できない。でもキングは短編をプレイボーイやカヴァリエ、ペントハウスなどの雑誌に投稿した。運がよければちょっとした収入が得られる。裕福でないキング一家にとって、ありがたい収入だった。


そんなある日、ハンプデンの英語部部長から魅惑的なオファーが来た。ディベートクラブが新たな指導教員を必要としているというのである。報酬は年間でプラス300ドル。すごく多いわけではないが、そのお金があれば10週間、一家は食いつなぐことができる。
この申し出は大いにキングを魅了したし、彼は家に帰ればきっとタビーもこの喜びを共有してくれるだろうと思っていた。しかし彼女は納得しなかった。
彼女は書く時間はあるのかと尋ねた。
「十分ではないね」と彼が答えたのでタビーは言った。
「なら、やめておいたほうがいいと思う」
そんなわけでキングは仕事を引き受けなかった。これは良い選択だった。それから一年もたたずに彼はあのベストセラー、キャリーの冒頭を書きはじめることになったのだから。

A PAIR OF WRITERS/二人の作家

キングがディナーの席でよく言う冗談がある。「なぜタビーと結婚したかって?それは彼女がタイプライターを持ってたからさ。それだけだよ」

2003年、キングは笑いながら「ある意味では正しいです」と言った。「私が彼女と結婚したのは彼女を愛していたからだし、ベッドから離れても同じ気持だったからだ。確かにタイプライターもひとつの要素だったけどね」

二人はどちらも裕福な家庭の出ではない。キングの場合、二歳の時、彼の父親はたばこを買いに行ってそのまま行方しれずになった。彼の母親は二人の子供を抱えて残されてしまったのだ。一方、タビーは貧しいカトリックの家庭にうまれた八人兄弟の一人である。二人が出会ったのは六十年代メイン大学で、恋に落ちたのは詩の朗読をする授業、結婚は卒業後すぐだった。この時、キングはスーツもネクタイもそして靴さえも結婚用に借りねばならなかった。

当時はふたりとも作家になることを夢見ていたが、最初の一年、彼らが受け取ったのは「リジェクト」という知らせだけだった。タビーの結婚にまつわる"Grimier"と銘打った詩集は出版社に気に入られたが、出版するレベルではないと却下された。スティーブンに至ってはさらに悪かった。彼は製図用の机でどうにか三本の小説を書き上げただけだったのである(後にこの原稿はハイスクール・パニック、死のロングウォーク、Blazeとして出版された)


とはいえ、キングはポルノマーケットではそこそこうけた。ほとんどの彼の小説はカヴァリエ――カヴァリエはアイザック・アシモフレイ・ブラッドベリロアルド・ダールを特集した雑誌である――の袋とじの中に埋葬された。SFとホラーがいくらかの理由でピチピチの金髪ねーちゃんで割かれた2ページで補完されたが、その2ページは男性作家には少々評判が良かったが読者からは厳しい批判が寄せられた。「あなたはマッチョなことばかり書いてる」と、ある読者は言った。「あなたはたぶん女性がかけないんだ。女性を怖がってる」


キングはそれを挑戦と受け取った。キャリー執筆への火が灯った瞬間である。

CREATING CARRIE/「キャリー」制作

「キャリー」はキャリー・ホワイトの物語だ。彼女は内気な女子高生で、自分の意志でものを自在に操ることができる。ある日体育の時間に彼女は初潮を迎えるのだが、長い間抑圧的で敬虔な母親に育てられていた彼女は何が起こっているのか全くわからず、死にかけていると勘違いしてしまうのである。いじめっこたちはキャリーを罵倒し苛めるが、ホルモンの変化でテレキネシスの力を得た彼女は、この力を使って自分を地獄に追いやった子供たちに復讐するのである。


この小説のアイデアはキングの白昼夢からヒントを得ている。彼は雑誌LIFEでテレキネシスの記事があったことを覚えていた。記事ではその力が存在するとすれば、思春期の少女こそ最強になれるとあった。同時に高校の用務員として働いていた時のことがキングの頭に蘇った。特に女子シャワー室のサビを綺麗にしなければならなかった日のことは鮮烈である。彼はそれまで(もちろん)女子シャワー室になど行ったことがなかったから、壁際のゴミ箱にタンポンがあるのをみて、遠い惑星に来てしまったように錯覚した。


二つの記憶が衝突した。キングはカヴァリエ用に10編ほど短編を作ることができると思った。プレイボーイ用でもいい。Hefの雑誌は支払いがよく、Buickも新しい作品を求めている。


キングは高校時代の記憶にある二人の孤独な少女をモデルとしてキャリー・ホワイト像を描いた。一人は痰がからんでいるのかいつももごもごと喋る少女で、臆病なうえにてんかん持ちだった。彼女の母親は原理主義者だったのでいつも等身大の十字架をリビングルームに飾っていて、その思想が学生寮にいる彼女のもとまで続いているに違いないとキングは確信していた。二人目の少女は孤独だった。彼女はいつも同じ服を着ていて、そして手ひどくいじめられていた。


キングがキャリーを書くまでにどちらの少女も亡くなっていた。一人目はてんかんの発作のあと、孤独死した。二人目は産後うつに悩まされ、ある日お腹にライフルをあてがって、トリガーを引いたのだった。「私のキャリアの中でもこれ以上不愉快な話を探すのはほとんど不可能です」と二人のことを回顧し、キングは書いた。


この悲劇はキャリーの執筆をより一層難しくさせた。書き始めのころ、彼はびっしり三ページタイプをしたところで怒りのあまりそれをぐしゃぐしゃにし、ゴミ箱の中に突っ込んでしまった。彼は自分自身に失望した。彼の批判は――彼が女性的な見地から物事を書くことができないというのは実にまっとうな批判だった。物語全体にも彼はうんざりした。キャリー・ホワイトは苛々する人物だったし、しかもよく訓練された被害者だ。もっと悪いことにプロットの流れは極めて遅かった。つまり出来上がるであろう作品はどの雑誌に載せるにも長すぎるのである。


「私は二週間、あるいはおそらく一ヶ月も使って好きになれない小説を書き上げるような余裕はなかったんです。しかも売れそうにないとわかっているのに」とキングは自伝「小説作法」に残している。「だから私はそれを捨てたんです――だって貧しい女の子の月経問題についてかかれた本なんか誰も読みたくないじゃないですか」


翌日、タビーは洗濯室のゴミ箱を空にしようとして、三枚のくしゃくしゃの紙を見つけた。彼女はそれを手に取り、煙草の灰を払い落としてページをのばした。キングが仕事から帰ってきても、彼女はまだそれを手にしていた。


「これ、すごくいいとおもうわ」と彼女は言った。「かなりイケてると思う」
それから数週間後、タビーは夫に女性の世界を案内し、キャラクターの作り方を指南した。そしてあの有名なシャワーシーンを書かせたのである。キングは最終稿を仕上げた。


だが、30の編集者がキャリーをリジェクトした。

PUBLISHED AT LAST /ついに出版の日が

ハンプデンアカデミーの日々も五期目に入っていた。彼はそれまでの期と全く同じようにグロッキーになりながら教員用ラウンジで試験の採点をしていた。頭ではうたた寝できたらどんなにいいかと思っていたが、そんなわけにもいかない。と、その時、校内放送がラウンジに轟いた。事務所の秘書の声だった。


スティーブン・キングさん、どこにいらっしゃいますか?」と声は繰り返している。
彼は内線電話をとってラウンジにいると答えた。すると秘書は用件を告げた。
「オフィスまでいらしてください。電話ですよ。奥様からです」


彼はオフィスまで走っていった。タビーが仕事場に電話をかけてきたことなどない。それどころかタビーが彼に電話をかけてきたことなどなかった。なぜなら彼は電話を持っていないからだ。彼らは節約のために電話を撤去してしまっていた。電話をかけねばならない時、タビーは子どもたちをドレスアップさせ、近所の家まで引っ張っていかねばならない。そしてそこで電話を借りるのだ。しかしそんな悩ましいことをしなければならないのは、ひどく困ったときか、もしくは非常にすばらしいことが起こったときだけである。キングが電話をとった時、ふたりとも息を切らしていた。彼女は言った。ダブルデイ出版の編集者、ビル・トンプソンって人なんだけど、彼が電報を寄越したの。読むわね。


“CONGRATULATIONS. CARRIE OFFICIALLY A DOUBLEDAY BOOK. IS $2500 ADVANCE OKAY? THE FUTURE LIES AHEAD. LOVE, BILL.”
「おめでとう。キャリーは正式にダブルデイ出版から発売されます。前金2500ドルでどうでしょう? 未来は明るいよ。本当におめでとう。ビルより」


キングは切り抜けたのだった。2500ドルは大金ではない。教師をやめ、完全にフルタイムで作家業をやるには、という意味では全然十分ではない。でも、彼が今まで小説を書いて得た金額としては一番多かった。キングはその前金でぴかぴかのFord Pinto*2を買い、トレーラーハウスから引っ越してメーンのバンガーにある四部屋もあるアパートに移り住んだ。食糧を買う十分なお金にもあるし、もちろん電話を引く余裕もある。


しかしたっぷりの印税が銀行口座を補充してくれるだろうという当てははずれ、キャリーはハードカバーで13000部しか売れなかった。この生ぬるい売上では1974年も教職の契約を新たに結ばねばならない。彼はしぶしぶと自分を納得させ、契約を結んだ。その合間に新しい小説、"The House on Value Street"をはじめたが、母の日にまたキャリーが彼のもとに帰ってきたのである。


全てを変えたのは一本の電話だった。ビル・トンプソンが再びしらせをよこしたのだ。
「君は今、座っているかね」と彼は聞いた。


キングはその時一人で家にいて、キッチンとリビングの境目にちょうどたっていたので、「座ったほうがよいですか?」ときいた。
「そうしたまえ」とトンプソンは言った。


"The paperback rights to Carrie went to Signet Books for $400,000 ... 200K of it’s yours. Congratulations, Stephen.”
「キャリーのペーパーバックの権利をサイネット出版が40万ドルで買った……うち20万ドルは君のものだ。おめでとう、スティーブン」


足から力が抜け、キングは思わず床にへたり込んでしまった。彼は文学的運命に打ち勝ったことに興奮して体を震わせたが、このニュースを分かち合ってくれる人は誰も家にいない。タビーは祖母の家に子供を連れて行ってしまっていて不在だった。でも、お祝いとしてすぐにでもタビーに母の日の贈り物を買わねばと彼は思った。彼は彼女になにか豪勢なもの、とにかく忘れられないものを買ってあげたかった。キングは急いでバンゴーのダウンタウンへ走っていった。その日は日曜でどの店も閉まっていたが、ドラッグストアだけは開いている。そこで彼はタビーに一番必要なものを買った。ドライヤーである。


キングは教職を辞し、タビーはドーナツを売るのをやめた。そして三年後、キングはタビーに別のプレゼントをかった。彼はおしゃれなマンハッタンの宝石店カルティエで、彼女のために婚約指輪をかったのだ。結婚して六年が経っていた。

A BONAFIDE HIT/真実のヒット

キャリーの単行本は批判的反応があったにも関わらず初年度だけで100万部以上売り上げた。ニューヨーク・タイムズは感銘を受け、これぞ処女作だと書いたが、一方で文学ジャーナルは「度を越しすぎている」と呼んだ。中間どころだとウィルソン文学ジャーナルで批評家が「これはどうみてもゴミですが、私は好きですね」などと評した。四十年たっても未だキングはこのデビュー作について厳しく批判する。「私にとってキャリーとは一年生の時に焼いたクッキーのようなものです。食べるには十分だが、ゴツゴツしてるしちょっと底のほうが焦げてる」


本を買う人々はもっと熱烈で、キャリーはヒット作だという。この小説は十代やアウトサイダーであることがどういうことかを知っている大人には非常に共感を呼んだ。1975年にはキャリーは利益の多い特別映像に採用され、その後十年あまり人気が続いた。リメイク版は明日放映だ。ストーリーはテレビと劇場で使用されたものも採用している(1988年のブロードウェイ作品は黒歴史だが)


キャリーを産んだのはキングである。しかしキングを産んだのもキャリーなのだ。いまや19世紀におけるもっとも売れた作家としてキングは2003年のアメリカ文学普及貢献のメダルを獲得し、全米図書賞でのスピーチに招聘された。スピーチ中、彼は作品や成功そしてお金についての話をしなかった。彼がしたのはゴミ箱からキャリーを救いあげ、彼を勇気づけた女性、すなわちタビーに話だった。


「作家の人生では必ずそういう時がある。傷つきやすくなり、我々が『現実』と呼ぶどぎつい光のなかで明晰夢と子供時代の野望が色あせて見えるような時が――」これはセレモニーでのキングのスピーチである。「簡単に言ってしまえば、それは人生の分岐点にいる時なのです。私にとってその時とは1971年から1973年の間でした。妻がもし私に対し、せめて愛と優しさと寛大さを示してくれないかと言っていたなら……夢を捨て家族を養うときが来たのだともし彼女が言ったなら、私は文句を言わずそれに従っていたでしょう」


でもそんな思いは彼女の心に去来しなかったのだろう。だからキャリーのどの版を開いても、同じ謝辞を読むことができるのである。


“This is for Tabby, who got me into it—and then bailed me out of it.”




by Lucas Reilly

October 17, 2013 - 3:25pm

*1:タイプライターのこと

*2:車のこと

ルーマニアの亡霊 ― 忘れ得ぬ美しさ、急がれる写真保全

http://lightbox.time.com/2014/02/04/costica-acsinte-archive/#1
の翻訳。



時間は仮想抽象概念として写真にレンダリングされます。しかし、収縮のサイケデリックな渦巻きの向こう、感光乳剤を薄く引き剥がせば、その写真の主題が無の中からはっきりと顔を出すでしょう。さらにはほんのわずかではありますがその写真をとった写真家についても知ることができるかもしれません。もっともその魅力の大部分は情報が明らかにされたからというよりは、覆い隠されたものや、見るものを拒否するなにかによるものですが。


Costica Acsinteはルーマニアの軍事写真家でWW1の時代に活躍しました。退役後、彼は小さな商用スタジオをブチャレストの東、約80マイルにあるスロボツィアで開きました。戦争後二十年間彼はこの地域でほぼ唯一のプロカメラマンんだったようですが、1984年になくなるまでの間、5000枚以上のネガ乾板と数百枚のプリントを含む壮大な、人類学的スコープのアーカイヴを作成していました。


「写真が必要な人はだれでも彼のスタジオに行くべきです」とCezar Popescuは言います。彼は法律家から写真家へと転身した人物で、この数年間は企業や一定のサポートを受けず、Acsinteのアーカイブ全体のデジタル化を労を惜しまずに続けています。


Popescuの父は、Acsinteの息子――彼も写真家です――と一度働いたことがありますが、彼自身は小さな地域の歴史博物館の手によって出版された数枚のポストカードから作品のことを知りました。Ascinteの死後、家族によって博物館に乾板が提供されました。この乾板はそれぞれ額縁に保管されていて、かなり興味深い生活記録になっているとPopescuはいいます。乾板が完全にだめになる前にスキャンすべきだと彼が説得するまで、写真は殆ど手付かずで残されていました。


「一つ一つ、出来る限り多くの情報を引き出したいと願っています」と彼は言います。「しかし今現在の私の主な関心は、乾板のデジタル化です。デジタル化は極めてすぐに行わねばならない。時がたつにつれ、感光乳剤の中の亀裂は増えるでしょう」


いくつかのプレートには日付とキャプションが刻み込まれている。しかし軍事記録を除けばほとんどのものはいつ、どこでそれが撮られたのか、そして映っているのが誰なのかさえわかりません。「私はこの写真の内容が重要かそうでないかを教えられるような人ではないです」とPopescuは付け加えます。「私にとっても、これほどまでに取り返しの付かないなにかを失うのは残念でなりません」


僅かにあるいは全く参照が修正されていないほとんどの抽象的な作品に関しては、イメージを伴うそれぞれの出会いがユニークに感じられる。誰かがある日、一枚またはそれ以上の作品に関して、なんらかの関連性に気づくとか、歴史的または地域的意義について示すということがあれば、とPopescuは願っています。しかしそれらがわからなかったとしてもこの作品の持つ美しさは見るものを惹きつけてやまないでしょう。


1984年のAcsinteの死以来、これらの画像に対してはいかなるライセンス制限も行われていません。実際、Acsinteの作品全体はパブリックドメインに公開されていて、ルーマニアクリエイティブ写真会のコミュニティ規約のもと著作権を保持しています。写真はダウンロード、シェア、編集、翻訳、あるいは連作加工がフリーで、ブログや印刷物への掲載、壁、ビルボードに掲載する――とにかくどこでなにをしても自由です。全体のアーカイブはFlickrFacebookまたはTwitterからアクセスできます。この人を知っていますか?もし知っているならLightBox@TIME.comまで。


Update: February 2014: The original version of this article had mistakenly referred to Costica Acsinte as “likely the only professional photographer in the country,” rather than “county.”


Read more: The Race to Save a Hauntingly Beautiful Photo Archive - LightBox http://lightbox.time.com/2014/02/04/costica-acsinte-archive/#ixzz2v5bJw1v4

結構意訳になった。あとで校正する。

メモ

だいぶハマっているカランメソッドだが、一応進捗状況を。随時更新である。しかし翻訳がすすまないなぁ…いやまぁちょっと日本語とか機械語のほうが忙しかったのであれなんだが。

stage かかった時間 目安
1 5h 25min 10h5h*1
2 10h 25min 10h12.5h*2
3 20h 10h20h*3
4 30h 10h
5 15h
6 15h
7 15h
8 15h
9 15h
10 15h
11 15h

ガツガツやっているので予定時間より早いが、ステージ2は先生替えたり(替わってしまったり)、土日はお休みなどしたため1回の授業で1レッスンを終えられない場合もある。喋るの自体は目に見えて楽になってきたので、一日2レッスンくらいは行けそうな気がする。まぁあとはお金の問題ですね。がんばろー

*1:20レッスンとあるが10レッスンだった

*2:20レッスンときいていたが25レッスンあるようだ

*3:20レッスンとあるが40レッスンあった